桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿
毎年 今の時期に 梅の樹の枝の手入れを行う。樹齢30年近くの梅の樹は とても大きくて 1本の木に1時間くらい かかってしまう。
この手入れは 剪定作業と言い、要するに たくさんの枝があり過ぎると 梅の実が小さくなってしまうし 収穫し難いから できるだけスッキリとした形に 枝を整えるのが 目的になると思う。私は 特に農業を勉強したわけでもないけど 今年で4年目になる この剪定作業から たくさんのことを学んでいる。
そんな中 読み進めている 養老孟司さんの本『一番大事なこと』ー養老孟司の環境論ー(集英社新書) からも 学びを得ているので またここで 紹介したいと思う。これは私にとってのノートにもなると考えていることを補足しておく。
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日本人は昔から 「手入れ」をする ということで 自然と上手に向き合うことができていた と養老さんは語る。「手入れ」は 人と自然が共存する お互いに対等な立場で補い合う ことであって、これは欧米の聖書的な考えである 自然を『支配する』こととは異なると言う。
確かに 手入れを行うことは その対象をさらに良くするためであって 支配あるいは破壊するためではない。そう言う考えが 昔から日本には根付いていた。それは おそらくのところ 自然に対する畏敬の念からくるものと言えるだろう。
さらに コントロール「支配」と「手入れ」について その違いを説明すると、
『コントロールが具体的に「手入れ」と大きく違うところは、容易にマニュアル化されるということである。マニュアルとは、特定の目的を果たすために必要な手続きを、きちんと定めたものである。だから、相手が変化しない、あるいは単純なときにはうまくいく。しかも、手続きがきちんと保障されていると、人間は安心する傾向がある。だから、すぐにマニュアル人間ができる。しかし、そこには落とし穴がある。手続きをきちんと果たしていると、相手の状態が変わり、目的が変わったときでも、そのことに気づかなくなってしまう。科学も同じである。科学は手続きが厳密だから、手続きに従ってやっている限り、たとえ目的が間違っていても正しいことをやっていると、本人が思い込む可能性がある。官僚制を考えたら、すぐにわかるであろう。官僚制とは、手続きを制度化したものにほかならないのである。
「手入れ」は、マニュアル化できない。里山の刈り方を、何月何日に下草をどれだけかるなどとマニュアル化してしまったら、生き生きとした里山の状態は保てない。「手入れ」の出発点は、相手を認めることにあると先に述べた。コントロールすべき対象ではなく、自分と同格のものとして相手を認める。自分が手を入れたら、相手がどのように反応するか、次にそれを知らなければならない。しかし自然という相手は、そう簡単には自分の姿や反応を見せてくれない。だから自然を知るためにあれこれ努力し、長い時間にわたって辛抱し、それでもやがてはわかる、と頑張る根性を持つことが要求されるのである。
努力・辛抱・根性という日本人の国民性は、自然と付き合い、「手入れ」をする中で培われてきたのである。』 (p106)
「桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿」とは 昔の諺である。その意味は 相手のことを理解できているか いないか ということが大事だということだと思う。
今 私は 毎日 梅の樹を手入れして 切っている。去年とは 全く異なることを考えている。決してマニュアルなんてない 何が正解かもわからない。ただ 梅の樹1本1本と対話しながら どうやればより良い実を結ぶようになるか それだけを考えながらの手入れだ。
それが結構楽しいと感じるから 私は多分 そういうのに向いているのだろう。